成東町図書館第一回文化講演会
「ミステリィで逢いましょう」
2000.9.23(土)



【中】

 ここから話は哲学や数学の世界へ。まず、「2+2=4」というのが外国人がなぜかよく使う表現で(森先生は「ツーという発音がワンより言いやすいんでしょうか」なんておっしゃっていましたが)、日本で言う「1+1=2」のように当たり前のことの例えとして使われるそうです。それを、小学校の算数でよく出てきた表現で森先生はたとえられていきます。

「え〜、2個のりんごと2個のりんごを合わせると4個のりんご。これは良いですね」
「じゃ2個のりんごと2個のみかんを合わせると・・、う〜んこれもなんとかなりますか、4個の果物たちと言えば(笑)」
「2匹の犬と2匹の犬を足すと4匹の犬になりますね、じゃあ1匹が死んでいる場合どうなるでしょう。3匹の犬と1つの死体でしょうか」
「もっと言えば、犬が半分に切れていたらそれは1匹と言うのでしょうか。頭だけならどうでしょう?」

想像すると凄い絵ですが(苦笑)、そういうお話を聞いてるうちに、実際そこのところはどうなのだろうかと考えてしまいますね。こういうのが一般的表現で「2つの存在と2つの存在を足すと4つの存在になる」と言われていて、これに疑問を持ったのがラッセルだということでした。ラッセルいわく「存在とは何か。存在の意味するところを説明してもらってから議論に参加しよう」だそうです。だんだん深くなってきましたね〜。この話に関連して、よくある「孤島に1つ持っていくなら何がいい?」というのがお話に出ました。「例えば筆箱を持っていきたいけど、中に入ってる鉛筆なんかは良いのか。それが良いなら筆箱に奥さんを入れても良いのじゃないか、国会図書館を持っていっても良いのか、だったら東京都を持っていきたいし、究極的には孤島じゃないものすべてを持っていきたい、つまり場所が交換されるだけでこちらが孤島になるということですね(笑)」とどんどんスケールが膨らむお話。つまり、「1つとは何か」が大きな問題ということですね。本当に、1つとは何でしょう・・う〜ん。

はい、何やら哲学的な話になってきたところで、次のOHPへ。結構有名らしい「一頭の黒い羊」という話。スコットランドの一頭の黒い羊を見ていろんな人がそれぞれの職業に見合ったコメントをするのですが、そのそれぞれのコメントが書いてあるOHPの右下には顔の黒い羊が描かれています。森先生は「楕円だけで描かれた羊です」とのこと(可愛い〜)。それぞれのコメントは以下のようなものです。

天文学者「スコットランドの羊はみんな黒いのだな」
物理学者「スコットランドの一部にいる羊の一部のやつが黒いのだな」
数学者「スコットランドのある地域に含まれるある草原の中にいるある羊の群れの中のある羊のこちら側が少なくとも黒いのだな」


ちなみに最後の数学者の言葉は、覚えていなかったので想像で補いました(苦笑)。さらに、この話には上記の3つに加えて森先生のオリジナルとして以下の2つが書いてありました。

哲学者「羊とは何だ? 黒いとはどういう状態か」
禅僧「私には羊が見えない」


この禅僧の言葉には、「つまり禅僧は目を瞑っているので・・」という森先生の説明が入って、会場は笑いに包まれましたね。これはあの講談社のK木氏にも評判が良かったそうです。

そして次はいよいよ数の話。OHPには「整数」「素数」と書いてありそれぞれに短い説明というかコメントが書いてあります。「整数」の方には、誰の言葉だったか忘れましたが「神が創られた数である」というようなことが書かれていたと思います(曖昧やなあ)。そして大きなウエイトと占めていたのがキーワードにもなっていた「素数」の方です。これはエウクレイデスという人が無限にあることを証明したそうで、それには背理法が使われていて以下のようなものでした。

★あるところで素数はなくなると仮定する。この場所をXとする。
      ↓
▼そこまでにある素数を全部かけて1を足す。この数字をYとする。
      ↓
▼するとYはどの素数で割っても1余ることになる。
      ↓
▼つまり、YはXからYまでにある素数の倍数か、もしくはYが素数である。
      ↓
★だから、素数は無限にある。

また、ジュウシチネンゼミをはじめとするセミの仲間は、素数の年数だけ土の中にいることが多いそうで、これはある周期を持って活動するような他の生物とかち合う確率を少なくするためだと言われている、というお話もありました。なるほど、そういうことだったんですね。しかし、よくもまあ素数だと認識できるもんだなと思いましたが、これは進化論的に言えばそういうセミが生き残ってきた結果なのかもしれません。そんなところにも素数が関係しているなんて生命の神秘だなあ・・。
ってボ〜としてる場合じゃありません。この素数の話に関連して、森先生がホテルのテレビでたまたま観られたという「伊東家のなんとか」(すみません、正確な名前を知りません)という番組で、高校生だったかが発見したと言って応募してきたんだそうですが、「3で割り切れる数を見分ける方法」を紹介していたそうです。それで、すごいですね〜とか言って「1つ多いだけで割り切れなくなるんですよ。3とは不思議な数ですね」なんてことまで言っていたそうなんですが、それに対する森先生のツッコミが「当たり前やん!」。そんなこと言ってて良いのか、伊藤家!みたいな感じです(笑)。
さて、さらに素数の話は続いて、これも誰かが言ったことで「すべての素数は4の倍数より1大きいか1小さいかのいずれかである」そうです。確かめてみれば分かるので詳しくは書きませんよ〜(書けないだけかも・・苦笑)。また(4n+1)の形で表される素数は、必ず2乗の数の和で表されるというお話もありました。例えば次のようなものです。

5=1+4 13=4+9 17=1+16 29=4+25 ...etc.

そして森先生いわく「これくらいのことを伊藤家も発見して欲しいですね(笑)」ということでした(笑)。

次は「完全数」(Perfect number)についてです。これはあの「子供の科学」でもあった話だなあと思いながら聴いていました。まず、もとの数がその約数の和よりも大きくなるのが過剰数と言って、小さくなるのが不足数と言うのだそうです。以下のものが例に上がっていました。(これは後ほど調べてみたのですが、ひょっとすると過剰数と不足数が逆かもしれません。森先生が間違われたのか、メモの書き違えなのか。もし違っていたらご指摘いただけると嬉しいです)

10>1+2+5=7(過剰数)←※ほんとは8なのですが後ほど指摘されて誤植だと森先生は答えられていました。
12<1+2+3+4+6(不足数)

ここで、「12」が「10」より約数が多くていかに便利な数かを森先生は説明されました。もうお馴染みですね。ものを分ける時にいろいろな分け方ができるように1ダ−スは12個入れるようになったし、時間を表すのにも12の倍数の60進法が使われきたということでした。そして人間の両手の指の数がたまたま10本だったために、10進法が普及してしまって不便になったのだということも。ここで思い浮かんだのが「誰もいなくなった」での萌絵が顔の横で手を広げるジェスチャでしたね(このときちょうど「まどろみ消去」を持っていて読んだところだったのです)。まさに「人類は10進法を採用しました」です(笑)。
残るはもとの数とその約数の和が等しくなる数で、これは完全数と言うそうです。「完全なのは神に選ばれた数である」とかなんとか言った先人もいたようですが、例えば6(=1+2+3)が一番小さい完全数で、小さい順に次のような数が求められています。

28(=1+2+4+7+14)、 496、 8128、 33550336 と続く。

他に、最近証明された「フェルマの最終定理」で有名なフェルマは、「2乗の数と3乗の数に挟まれるのは26だけである」ということも言っているそうです。つまり、25(=5×5)と27(=3×3×3)に挟まれているということですね。26以外にずっと大きな数でもそういう数がないなんて、にわかには信じられませんが、たぶん正しいんでしょうね(不思議だなあ・・)。あと、その「フェルマの最終定理」を証明したのは40歳代の人で、森先生は「あの年齢でああいう計算ができたのがすごいと思います」と感心しておられました。「どういう計算かは知りませんよ(笑)」と断られていましたけどね。
それから、特異な数について、eはオイラーのeだとか、特異な数にはこのei(虚数)とπ(円周率)があって、これらすべてが含まれる史上最高の方程式があるということ(これは第1回全国共通森試験にも出た問題で、詳しくは述べられませんでしたが、「ei・π+1=0」というものです)、「Aという数の約数をすべて足すとBという数になりBの約数をすべて足すとAになる」という関係をもっている友数という数(例えば220と284)について軽く触れられました。

ここまで話されたところで、森先生は「もう峠は越えました」とおっしゃり、会場には安堵と笑いが(笑)。

次は先人たちが言った「確率が高い」というだけのある意味詐欺師的な言葉について・・・いくつかあったのですが話に夢中でメモをとり忘れ今はもう記憶の彼方です(とほほ)。なのでひとつだけ、「人類の文明はフェルマの最終定理がとかれる前に滅びるだろう」というものでしたが、「これはもうとかれてしまったのではずれましたね(笑)」と森先生。あと背理法についても少しお話がありました。背理法ははじめに「なになにでなかったら」と否定するので、つまりゲームで言うと初めからゲームを捨てているようなものなので強いのだそうです。ミステリィで言えばメタミステリィみたいな。例えば、犯人を当てる場合、背理法だとはじめに「誰々が犯人でないとするならば」と仮定して「こうこう、こういう矛盾が出るので、誰々が犯人だ」というふうに推理が展開されてしまい、解決編の最初から犯人が分かってしまうのでミステリィとしては面白くなくなるそうです。やはり、ミステリィの解決というのは三段論法的に「これこれこうだから、誰々が犯人だ」というふうに展開される方が面白いということでした。でも、前の方で森先生がおっしゃっていた、スバル氏のような驚きたくない読者だと、背理法の解決編でも面白く安心して読めるのかもしれませんね。と今思いました。

さてさて、ちょっぴり真面目なお話はここまでで、これからはまたまた眠気も飛んでしまうお話が展開されるわけですが・・しかし、それはまた【下】の話。

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